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区の名称について

神戸市との合併にあたって、御影・住吉・魚崎の3か町村は、本来このあたりが「灘」の中央部であることから、区名を「灘区」にすべきと主張しました。 しかし、神戸市では既に西隣りに「神戸市灘区」を持っていることから、問題となりました。 既に存在する「灘区」を「西灘区」とし、こちらを「灘区」にすべきという意見や、「本灘区」にせよという意見などが出されましたが、 結局、神戸市長一任で「東灘区」に決まりました。

参考文献 道谷卓・望月浩・望月友二編著『ザ・ひがしなだ―東灘の歴史の足跡をたどる―』神戸深江生活文化史料館友の会

魚崎、地名の由来

「魚崎」という地名は、江戸時代には「五百崎」とも表記されている。
この「五百崎」の名の由来といわれる伝説には次のようなものがある。
1つは、三韓出兵の際に神功皇后が諸国から軍船を集めたところ、
この浜に500隻の船が集結したという伝説。もう一つは、応神天皇の代に、伊豆の国から立派な船が献上されたが、その後老朽化して使えなくなったため、 その船材を燃料として浜辺で500籠の塩を焼き、諸国にその塩を分け与えるので船を造るよう命じたところ、この浜辺に500隻の船が集まったという伝説。
「五百崎」が「魚崎」となった由来については、この土地が不漁続きとなった際、漁民が豊漁を祈って地名を「魚崎」と改めたいと領主に願い出、 許しを得たことによるといった説が伝えられている。
ちなみに、旧魚崎町の町章は、「五百崎」の「五百」を図案化したもの。

参考文献 
『東灘歴史散歩』『ザ・ひがしなだ―東灘の歴史の足跡をたどる―』

財産区について

財産区とは、公の財産管理をおこなう特殊な地方公共団体で、神戸市には160カ所もあるそうです。 管理している財産は、明治以降の町村合併の過程で、地元に残すことになった財産だそうですが、 神戸市のなかで財産区独自の議会があるのは魚崎のみとのことです。
なお、財産区の範囲については、歴史スポット第2回に書いてあります。

参考文献 
『造景』No.1建築資料研究社

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