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魚崎の歴史
弥生時代になると、この地域一帯でも水稲耕作が始まったと考えられています。 そのことを示すものとして、この近くでは住吉町などで農耕に関連する道具が発見されています。
4世紀の半ばになると、大和朝廷が日本を統一し、豪族を支配しました。このあたりを治めていたと考えられる豪族は、 葦屋漢人(旧本庄村あたり)大和連(旧本山村あたり)・雀部朝臣(魚崎)などです。
7世紀になると、律令制による中央集権国家を作ろうという動きが活発になりました。 律令制によれば、東灘は摂津国菟原郡に属し、この近辺は佐才郷と呼ばれました。
中世になると、政治の担い手は、貴族から武士に変わります。 武士の中でも特に強い勢力を持った平家と源氏が戦った『源平の争乱』では、この地域も舞台となりました。 源平盛衰記などの文学作品には、“雀の松原”の地名が登場しています。
戦国時代を経て織田信長のあと天下統一を果した豊臣秀吉は、検地を行い、天正の頃には、東灘一帯はほぼ全域が豊臣家の直轄地となりました。 豊臣氏が徳川幕府に滅ぼされると、幕府は東灘を天領とせず、尼崎藩に組み入れ、以後、戸田・青山・松平といった大名たちが尼崎藩主となり、 東灘の地を支配しました。これまで農村であった東灘の一帯は、京・大坂に通じる街道筋のため、産業が発達しました。 水車業、酒造業などもこの時期から盛んに行われるようになりました。幕府は、このような産業の発展に注目し、1769年に東灘南部の主だった村々を天領にしました。
明治政府になると、それまで徳川幕府の天領であった村々は兵庫県となり、その他は尼崎藩が支配することになりました。 廃藩置県で尼崎藩は尼崎県となり、後に兵庫県に吸収されました。
明治22年(1889)には市制・町村制が施行されて、神戸市および東灘区の前身、御影町・住吉村・魚崎村・本庄村・本山村の東灘旧5か町村が誕生しました。
明治29年には、菟原郡、八部郡、武庫郡が合併して、武庫郡となり、大正3年(1914)には、町制が施行され、魚崎村が魚崎町に変わりました。
ところで、この地域の発展に大きな影響を及ぼした出来事に、3つの鉄道の開通があります。 明治7年(1874)、神戸・大阪間に鉄道(現JR)が開通し、住吉駅が開業したのを皮切りに、明治38年(1905)には阪神電気鉄道が、 大正9年(1920)には京阪神急行電鉄(現阪急)が開通しました。
昭和に入ってからの大きな出来事は、昭和13年(1938)阪神大水害、昭和20年(1945)の大空襲があります。それぞれとても大きな被害でした。
戦後まもなく、神戸市と芦屋市は東灘の旧5か町村に合併誘致をおこない、魚崎は御影、住吉とともに神戸市との合併を決断しましたが、 この2つの災害(天災と戦災)によって、魚崎町の財政が逼迫した状況にあったことも、合併を決断する上で大きな要因であったと言われます。 結果、昭和25年(1950)4月1日、御影・住吉・魚崎の3か町村は、神戸市に合併し、東灘区となりました。 そして半年後の10月10日、本庄・本山の両村も合併し、現在の東灘区となったのです。

参考文献 道谷卓・望月浩・望月友二編著『ザ・ひがしなだ―東灘の歴史の足跡をたどる―』神戸深江生活文化史料館友の会

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